fbpx

【人生に意味なんてない】聴覚障害の両親から学んだ人生の教訓3つ

人生の意味ってなんだろう?

僕は、子供の頃からずっと生まれた意味や存在意義について考えていました。

 

というのも、僕の両親は2人とも聴覚に障害を持っています。音が聴こえないのです。

それは些細なことであり、大した問題ではないと、今なら思えるのですが子供の頃は、いつも人生の意味ばかりを考えていた。

少しだけ人と違うだけで、こんなにも苦しまなければいけないものかと、自分の境遇すら呪ったこともある。

 

だけど、その経験があったからこそ「人生に意味なんてない」って開き直ることもできるようになった。

開き直ることさえできれば、どんな状況であっても自分次第でなんとかなるって、思えるようになった。

それを教えてくれたのは、間違いなく両親でした。

 

「人生の意味」を考え続けた青春時代

両親は耳が聞こえないので、コミュニケーションの手段として「手話」を使います。

でも実は、僕は手話を正確には使えないんです。

 

だけど、口の動き、表情、身振り手振りで両親が何を伝えようとしてるのか分かります。

厳密に言うと、僕と両親の間でお互いのコミュニケーション法が成立してるので、手話を完全に理解してなくてもある程度は分かるというほうが正しいかも。

細かいニュアンスは筆記を使えばOKですし。

 

この両親の元に生まれてから、僕は両親とのコミュニケーションだけでなく、友達や先生・大人たちが何を考えてるのかが何となく子どもながら分かるようになってしまいます。

 

実際、本当に分かってたかどうか定かではないですが、

  • 言葉では良いこと言ってるのに、顔が笑ってない。
  • すごく感情込めて言ってるつもりなのに、言葉が薄っぺらい。
  • 態度や振る舞いで、怒ってるのか、焦ってるのか、元気があるない。

などが、言葉以外の情報から、何かを察してしまい空気を読む癖が身についてしまった。

 

中には心無い人たちが、僕の耳が聴こえない両親を見て笑い、差別したような冷ややかな視線を浴びせてくるのです。

 

僕にとっては両親の耳が聴こえないのは普通だと思っていました。

友達の親は耳が聴こえて、僕の親は聴こえない。

ただそれだけの些細なことですが、他の人と違う家庭に育ったことに対して、「僕は普通じゃないのだ」と徐々に感じ始めるようになった。

 

小学生の低学年まではワンパクだったことを記憶してますが、正直その後の記憶というのが今でもあまりないのです。

少なくとも小学校高学年~22歳まで、楽しかったと思えるような記憶はほとんどないに等しい。

 

自分の感情を出せなくなり臆病になった僕は、誰かと一緒にいても孤独感が抜けることはなかった。

友達が全くのゼロだったわけではないですが、僕が心を許せるような友達というのはほとんどおらず、常に仮面を被って生きるようになります。

 

とりあえず波風立たないように、目立たないように、

「こんな僕がなにか言えばきっとバカにされる、お前なんかがと言われるに決まっている。」

「誰も僕のことなど理解できるはずもない」

と、そんな被害妄想MAXのセルフイメージが出来上がってしまったのです。

 

コミュニケーション力もドンドン低くなっていき、まとも会話もすることもできなくなっていく。

そうなると、

  • 女の子ともまともに喋れなくなり
  • 心許せる友達もほぼいない
  • 自信なんてあるわけない
  • こんな自分はダメなやつだ

というコンプレックスの塊だけが大きくなっていきます。

 

「なんで俺って生きてるんだろう」って高校~大学生あたりは特に猛烈に考えた時期もあって、

この『神との対話』っていう哲学書を何故か買って読んでたこともありましたね。

当時は書いてることが難しすぎて意味不明で、すぐ読むの辞めましたが(笑)

 

障害を持った両親から学んだ3つのこと

だからと言って、両親のことを恨んだりはしてません。

当時まだ未熟だった僕は一時期、「なんでこんな家庭に生まれてしまったのだろう」と自分の境遇を嘆いたこともありましたが、今では本当に良かったと思っています。

僕は人と違う家庭に生まれたことによって、一般の家庭では経験できないことを沢山得られたから。

 

①人の痛みが分かるようになり、達成する喜びが増えたこと

まず人とは違う環境で育った経験、人間関係・コンプレックスに苦しんだことで、メンタル自体はかなり強くなったと思います。

それにマイナスがあったからこそ、同じような境遇の人の気持ちが理解できるし、多少の辛いことや困難があっても耐えられるようになった。

それらがあったから頑張ろう、這い上がろうって、思えたんじゃないかと。

 

サッカーの本田圭佑選手の言葉を借りるなら、「伸びしろ」が沢山あったんです(笑)

もし最初から何も不自由なく育って、超完璧人間で、常に理想を叶えてきた人間だったなら、達成の喜びとか充実感って感じれなかったと思うんですよ。

むしろ挫折があったから、今こうしてブログを書いたり、好きなことしながら仕事ができるようにもなった。

記事を取得できませんでした。記事IDをご確認ください。

 

グラデーションもなく、淡々と毎日が過ぎていく人生って、面白くないじゃないですか。

苦しいことや辛いことがあるから、それを乗り越えたときって最高に気持ちいいんですよ。

 

だから、人とは違う、足りていない、っていう感情が生まれるのはある意味、才能なんですよね。

それだけ人生を面白くできる可能性が秘められてるってことですから。

 

②環境を変えればいつでもリスタートできる

僕は大学卒業まで地元に住んでいましたが、その先どうするか?なんて何もプランはなかった。

しかも「自信がない・コンプレックスしかない」という状態で、このまま生きてても希望なんて見えるはずがありません(笑)

 

「どうせこのまま今の延長線上の人生歩むくらいなら、僕のことを知らない場所、僕が知らない場所でもう一度、人生をやり直したい」

「きっと環境を変えれば、何かが変わるに違いない。」

そんな感情が芽生え始めてきて、大学卒業したら地元を出ようと決意したんです。

 

なんでそう思ったのか、全く根拠はないのですが、当時の僕にはそれしか選択肢がなかった。

地元の岐阜から大阪に出ていき、誰も僕のことを知らない環境に移り住んで、僕は人生をリスタートさせたんです。

 

それは結果的に正解でした。

大阪に来てからも紆余曲折はありましたが、今現在は起業して自分が好きなことを仕事にしています。

とても充実した日々を過ごせています。

 

環境が変わると「違う自分」になれるんですよね。

むしろ今まで他人の顔色を気にしながら生きてきた、地元の僕のほうが「偽物」だった。

 

例えば、いじめられっ子になってしまう人も、その人自身が「いじめられっ子」なわけじゃない。

何かをきっかけに「いじめられっ子」というレッテルを貼られてしまったから、それが自分なんだと錯覚してるだけ。

今までは周りから「桑名はこういう人間だ」みたいなレッテルを貼られてしまって、ずっとその自分を演じていたんです。

 

閉ざされたコミュニティの中で生きてきてると、そのコミュニティでのルールや価値観が当たり前になってきます。

だけど、そこのコミュニティのルールが絶対に正しいとは限らない。

 

料理が得意な人、スポーツが得意な人、絵が得意な人、話すのが得意な人。

音楽が好きな人、自然が好きな人、映画が好きな人。

アクティブな人、のんびりな人、一人が好きな人、大勢でワイワイが好きな人。

 

色んな価値観の人たちがいる中で、全員と仲良くなる必要もないし、無理に合わせる必要だってない。

もし居場所がないと感じたり、居心地が悪いと感じたら、たまたま自分には合わなかっただけかもしれないので、なにもずっとそこに居続ける必要はないんです。

 

嫌になったら逃げていい。逃げるというのは諦めるのではなく、新しい可能性を他に探せばいいということ。

ずっと居続けてきた環境に生き苦しさやマンネリ化を感じてる方は、とりあえず引越ししましょう(笑)

とりあえず環境さえ変えてしまえば、勝手に現実は変わっていきますから。

 

③人生に意味なんてない(すべては自分次第)

子供の頃の僕は、ただ『不幸な自分』を演じていました。

自分で勝手に問題を作り上げて、他人の目を気にして、勝手に自信をなくして、勝手にストレスをためていく。

僕は、現実が受け入れられなくて、納得できる理由や、うまくいかない状況を正当化したかっただけなんです。

 

だから「自分の境遇は不幸だ」と被害者ぶっていた。

 

過去に何度か、

  • 何で自分がこの環境で生まれたんだろう
  • この両親の元で生まれたことには何か意味があるんだろう

って色々と考えたり、占い師とかスピリチュアルの先生に診てもらったりしたこともありました。

 

でも色々と悩んできた結果、まあ別に意味なんていくらでも解釈できるよな、って気付いたんです。

 

だって、

「あなたと両親は過去にこんな繋がりがありました」

「あなたと両親はこんな学びを得るために生まれてきました」

みたいな話を聞いたところで、僕はどっちみち生きなきゃいけないんですよね。

 

別に今の両親の元に生まれた意味なんてどうでもよくて、たまたま僕がそうだっただけのこと。

意味があるかどうかが大事なんじゃなくて、そこから何を学び、何をすべきか、そっちのほうが重要なんですよね。

 

変えられない自分の境遇ばかり呪って、そこにいちいちエネルギー使うのもアホらしいじゃないですか。

「人生の意味なんてどうでもいいから、自分が思うように生きればいい」って、気づけたのも、両親のおかげです。

 

人生の意味は自分で勝手に作ればいい

「人生に意味がない」っていうのも、僕自身の解釈であって正しいかどうか分からない。

というか何が正しいかどうかなんて、正直どうでもいい。

「人生に意味はある」と思って生きてる人は、それが生きる力がなるのならそれでいいと思う。

 

なんのために生きるのか?なんて人それぞれですから、他人が決めることじゃないし、自分で勝手に決めて生きればいいんですよね。

ただ少なくとも僕らは、意味があろうと、なかろうと生きていかないといけない。

だったら面白いこと、楽しいこと、人生がより豊かになることを考えて、そのために生きたほうが生産的かなと思うんです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

テキストのコピーはできません。